「聖地」巡礼 吉屋信子の足跡を追う

2019年は吉屋信子さんについての論文(『吉屋信子研究』竹田志保著 翰林書房 2018)を読んだり、『屋根裏の二処女』の読書会に参加したり、私にとって吉屋信子さんの本に縁がある1年だった。

吉屋信子さんは大正・昭和に活躍された作家だ。代表的な作品として少女小説『花物語』『わすれなぐさ』『小さき花々』が挙げられる。その他にも上に記した自伝的小説『屋根裏のニ処女』。そして家庭小説『良人の貞操』。歴史小説『徳川の夫人たち』、『女人平家』。その他多くの女性のための作品を世に出した作家である。

私は吉屋信子さんの本が大好きだ。今の「百合・ガールズラヴ」の始源を探したら、まず、吉屋さんの少女小説に見出される場合が多い。私も百合小説を書く端くれとして吉屋さんを「師」として仰いでいるのは当たり前のことだ。しかし「百合・ガールズラヴ」のブームに乗って、消費してしまうのにはあまりにも勿体ない作家であるのも、また事実である。家庭小説や歴史小説のなかで多くの女性同士の絆を吉屋さんは描いてきた。その熱量は今も私の胸を打つ。

吉屋さんの本は、最近は復刻版も出ているが、絶版本も多い。そして熱狂的な吉屋さんのファンは国会図書館から本を拝借していたらしく、すべての著作に目を通すことは難しい。私もできるだけ沢山の吉屋さんの本を大学図書館で探し、地元図書館で探し回った。そして初めて触れる吉屋さんの本に心を躍らされて、熱いまなざしを文章に向けていた。私は好きな作家は? と尋ねれたときには必ず「吉屋信子さん」と答えるようにしている。吉屋さんの作品たちは私の胸臆に狂おしい火傷を作ったからだ。

そんな彼女の足跡を辿ることができるのが、「鎌倉市吉屋信子記念館」だ。ここは一般公開がほとんどされていない。4~6月、10~11月の限られた日数でしか入れない。2019年11月某日。私は「pixiv」で開催された「第2回百合文芸小説コンテスト」の必勝祈願を願うため、「吉屋信子記念館」を訪れた。

秋の陽が眩しい、暖かな日だった。私は早めに「吉屋信子記念館」に到着した。吉屋信子が執筆に励み、晩年を過ごした「吉屋信子記念館」は民家の間を縫うように建てられていた。しかし門前には立派な松が植えられいる。

開門までしばらく待っていると、男性3人が「吉屋信子記念館」の前に立っていた。
「吉屋信子さんのファンですか?」
と尋ねた。
「いえ、私たちは建築家で、吉屋信子邸の建物に興味があるんです」
と言った。

吉屋信子邸は吉田五十八氏によって設計された。近代数奇屋建築の第一人者と言われているひとである。小林古径、山口蓬春、梅原龍三郎らの邸宅の他、大阪文楽座、明治座、日本芸術院会館などをてがけた。
吉田氏は昭和10年に東京牛込砂上原町の吉屋信子邸を設計し、さらに37年、吉屋に「奈良の尼寺のように」と望まれて、この長谷の家を設計した。

「社会教育施設 鎌倉市吉屋信子記念館」鎌倉市教育委員会のパンフレットより

尼寺のように、ということで間取りもシンプルなものだ。

▲「社会教育施設 鎌倉市吉屋信子記念館」鎌倉市教育委員会のパンフレットより

台所とお手洗い以外は見学をすることができた。応接室には吉屋信子さんが実際に座っていたソファが置かれていた。


腰をふんわりと包みこむようなソファだった。私はここで吉屋さんが誰と会い、思索に耽っていたのか、考えた。タイムスリップしたような不思議な感覚だった。

次は吉屋信子さんの書斎だ。やわらかい光がテーブルを照らしていて、朝の執筆も捗ったことだろうと推測できる。ここで数多くの名作が書かれたのだと思うと、感慨に打ち震えた。

秋灯机の上の幾山河

この句は昭和47年、亡くなる3ヵ月前に吉屋信子さんが詠んだ俳句だ。
この俳句のなんと重々しいことか! 12歳の頃から雑誌への投稿を始め、亡くなる77歳まで書き続けた、吉屋信子という作家の一生をぎゅっと凝縮した俳句だ。
平坦に見えるこの机の前で、吉屋さんの人生にはいったいどんな山や河があったのか、感慨に耽るしかなかった。

和室には立派な掛け軸がかかっており、庭は11月ということで寒々しかったが、枝垂れ梅が見えた。学芸員の方は夏の前に梅の実を取ると言っていた。吉屋信子さんも梅の実を取ったりしたのだろうか、と思うととてもほほ笑ましい光景が思い浮かぶ。
そして吉屋信子さんの主著『花物語』に出てくる「紅梅白梅」の一節を思い出す。
経済的困窮により、仲の良い姉妹のうちに妹が伯父に引き取られることになる掌編だ。

 その悲しい夜の明けた朝。
 澄江は起き上がって姉の耳に告げました。
『私ゆうべ夢を観たの、あのねお姉様と私とふたりで野原を歩いているとね、白い髭の長くくたびれたお爺さんが出てきましたの、そして其お爺さんがある山へ二人を連れて行ったの、そこはまあ綺麗な梅の花が咲いていました。いっぱいたくさん――そして紅い花は此方のお山に、白い花は谷の向こうのお山に咲いているの、ふたりはそこで遊ぼうとすると、お爺さんが叱ったのよ、そこで遊んではいけないって……、そして山の間を流れている河の前でお姉様と私を別々の舟にのせました。
だもんだから私悲しくて泣いたけれども、もう舟がながれてゆくの、お姉様の舟は白い梅の咲いているお山の方へ、私の舟は紅い梅の咲いているお山の方へ、二つの船は別れ別れに離れて流れますの――。
(お姉さま――)
(澄ちゃん)
といって呼び合っても、だんだん二つの舟は遠く離れてしまうんですもの、泣きながら艪にしがみついて身体を打ちつけたら……眼がさめたのよ――』

(吉屋信子『花物語<上>』河出文庫 p.121~122)

吉屋信子さんが植えた梅は白か紅か確認をしておくべきだった、と少し後悔した。

他にも庭には緑が満ちていて、家の中にいても四季を楽しんでいたのだろうということがわかった。

吉屋信子さんの暮らした日々をこうして思い返すだけで、私は未だ胸が躍る。
そしてせっかく鎌倉まで来たのだから、吉屋信子さんのお墓に参ろうと、私は「吉屋信子記念館」を後にした。

吉屋信子さんの眠る高徳院清浄泉寺に「記念館」から歩いて行く。お花屋さんで仏花を買って、私は浮足立っていた。吉屋信子さんの生活が、今の私の生活の地続きにあることが嬉しくてたまらなかった。
高徳院に着くと、道案内がなかったので、とりあえず受付の方に吉屋信子さんのお墓がどこにあるか、訊いてみた。すると意外な言葉が返ってきた。

「吉屋信子さんのお墓は一般公開されていないのですよ」

とても残念だけれども、私は百合の花束だけでも墓前に置いてください、と頼み込んだ。受付のひとは電話で確認すると、お預かりしますと言ってくださった。

2020年の梅雨を前にして、19年の秋のことを思い出すと、気恥しさが残る。
必勝祈願とかこつけて行ったこの小旅行。「第2回百合文芸小説コンテスト」は最終選考まで残ったが、私は入賞することができなかった。それでも、まだ、と性懲りもなく「百合」小説を書いている。吉屋信子さんの思想や、意志が本を通して私の日常に沁み込んでいるのだ。それをどうして書かずにいられよう。そんなことを考えながら、私は今日もPCの前に座り、文字を打っている。
吉屋信子さんの小説たちに私は背を押される。『屋根裏のニ処女』のラストシーンの美しい文章でこのコラムを終わらせたいと思う。

――(私どもの屋根裏よ)
かく親しく呼ぼう――おお実にそれは(私たちの屋根裏)であったのだ!
(私どもの屋根裏よ)
さようならを告げるときが来た――
その愛すべき屋根裏の青き三角形の小部屋に住める二人のむすめは立ち去る――
彼等はおたがいが運命の手によって各々おたがいに与えられた――
そして、いま二人は二人の行く路を探し求めて、屋根裏の青い部屋を離れてゆく――
(私どもの屋根裏よ)
さようなら!
ふたりのおとめの(運命)を醸すべき美しい酒壺となった屋根裏よ。
ふたりのおとめの(運命)を育んだ青い揺籃となった屋根裏よ!
さようなら――

(吉屋信子『屋根裏のニ処女』国書刊行会p.317~318)

吉屋信子記念館に行きたい方はこちらのHPを参考にして頂きたい。
またパンフレットのURLはこちら(PDF)。

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