文学は祈りつづける――岡真理『アラブ、祈りとしての文学』を読む

祈ることが苦手な日本人?

ロシア=ウクライナ戦争がいよいよ始まるというとき、Twitterで流れてきたつぶやきがある。

「何かしたいけれど、自分ではどうにもならない/どうすればいいかわからない、そんなときに祈ることは有益だと思う」

「特に無自覚・自覚を問わず、信仰を持たないとされている多くの日本人は“祈る”という行為が苦手なのではないだろうか?」

そんなツイートが連なって流れてきて、深いため息とともにスマートフォンに向かって頷いた。

かくいう私も、仏教徒でありながらクリスマスはチキンとケーキを食べており、神への信仰とも無縁の生活を送っている。しかし、私に祈るという行為の重要性を教えてくれた本がある。岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房 2008年)だ。

2022年6月現在、コロナ禍はまだ続いており、ロシア=ウクライナ戦争やミャンマーのクーデターは激化と泥沼化の一途を辿っている。日本でも凄惨な事件が後を絶たない。

私は特定の神に祈るのではなく、ただ祈る。それは文学という営みに似ているのではないかと考える。「戦争がなくなりますように」、「世界に平和が訪れますように」……これらの祈りは無為な営みだろうか? 決して実現されないとわかっていても、祈らずにはいられない。そこにどんな意味があるのだろうか。『アラブ、祈りとしての文学』を読み解きながら、文学と祈りの相似性を見つけていきたい。

岡真里は1960年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授だ。専門はアラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想。著書に、出来事を語るとはどういうことかフィクション作品を交えて書かれた『記憶/物語』(岩波書店 2000年)、第三世界フェミニズム思想と文学を読み解く『彼女の「正しい」名前とは何か』(青土社 2000年)・『棗椰子の木陰で』(青土社 2006年)など。近著には『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房 2018年)がある。また、2009年から平和をめざす朗読集団「国境なき朗読者たち」を主宰している。

「アフリカで子どもが飢えて死んでいるとき『嘔吐』は無力である」と語ったサルトル

『アラブ、祈りとしての文学』の冒頭は次のような内容から始まる。

 2000年9月末、第二次インティファーダ(注)の勃発を契機にイスラエル軍が侵攻し、老若男女問わずパレスチナ人の命が奪われていった。翌年の9.11により、「テロリスト撲滅」を掲げるイスラエル軍の侵攻は激化。02年4月には抵抗の拠点であったヨルダン川西岸北部のジェニン難民キャンプは徹底的に破壊された。岡はいてもたってもいられぬ思いで4月末にパレスチナに赴いた。
 このような現実を前に、私は、自分がアラブ文学研究者であることの意味を問い直さずにはおられなかった。ジャーナリストなら、この現実を写真や文章で広く世界に伝えることができる。(中略)だが、私はアラブ文学者だった。それはおそろしく無能で役立たずのことのように思われた。パレスチナでパレスチナ人が虫けらのように殺されているとき、文学は何ができるのか?

(『アラブ、祈りとしての文学』p.2)

フランスの文学者・哲学者であるJ・P・サルトルの文学への姿勢を岡は思い出す。

サルトルは「ル・モンド」紙のインタビューにこう答えた。

作家たるものは、今日、飢えている20億の人間の側に立たねばならず、そのためには、文学を一時放棄することも止むを得ない。

(『文学は何ができるか』 河出書房 1966年)

今回取り上げる『アラブ、祈りとしての文学』では、主にアラブ文学や映画を対象として「文学は何ができるのか?」という問いが通底している。

2002年4月末に砲火が飛び交うパレスチナの訪れたある家で岡はレモネードを振るまわれる。そして、本を読んで気を紛らわせていると語る女性に、岡はサルトルの出した答えとは違うものを見出す。

岡はこのとき女性が何を読んでいたか聞きそびれたことを後悔している。不条理な情況にあってなお、人間が人間として存在するためにその女性は何を読んでいたか。砲撃にさらされるなかで、私はいったい何の本を読むだろうかと考えた。人間を人間たらしめるための本。それは私が今まで読んだ全ての本たちであるように考えられるからだ。私という人間をたらしめているのは、今まで読んだ本からできているのだから。

岡はこの経験をへて、サルトルの提起とは反対の応対をする。

サルトルのいう文学は結局のところ、白人で、飢えを免れていて、安定した暮らしができる人間にのみ開かれていることになってしまう。ここにはサルトルのエスノセントリズムが現れている、と岡は痛烈に批判する。

そして岡は、むしろ文学は飢えて死にそうな子どものためにあるのではないか、と語る。

飢えていまにも死にそうな子どもは本など読めないに違いない。だが、その子が実際問題として文学が読めないという事実は、文学を必要としていない、ということを意味するだろうか。(中略)その子が死ぬことが100パーセント確実であるとして、だから小説はその子にとって無力である、いま小説を読むことがその子にとって何の意味もないと、なぜ、言えるだろう。

(同 p.13)

『アラブ、祈りとしての文学』に書かれていること

本書では、多くの日本の人達には馴染みのない、アラブ文学の作品について多く言及されている。

人の死は数でかぞえられ、ひとりひとりの人間の命ゆえのものではないと訴える、イブラーヒーム・ナッスラーの小説の『アーミナの縁結び』(私はこの問題に電車の人身事故への無関心さや苛立ちを思い出した)。

働きすぎの日本人には羨望を感じる、午睡(シエスタ)の習慣の問題を浮き彫りにした、エジプトの女性作家アリーファ・リファットの短編「遠景のミナレット」。

また、岡はカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』高く評価している。

『私を離さないで』が、アウシュビッツへの応答であると同時に、サルトルの問いに対する、作家イシグロの実践的応答として読むことができるだろう。彼らは人間らしくその生をまっとうすることはできないのだと、世界から当然のように見なされ、その生もその死も、世界に記憶されることのないこれら小さき者たちの尊厳を、小説こそが描きうるのだという応答である。

(同 p.17)

岡はためらいながらも力強く、多くの文学作品や映画を通して、「文学は何ができるのか?」という問いへ肉薄していく。

祈るという行為と文学の相似性

岡は『わたしを離さないで』を今日のパレスチナ世界への応答であり、小さき人々に捧げられた祈りであると書く。そして、パレスチナで経験したことや、多くの文学作品たちを通して祈りと文学の相似性を見出していく。

ひとつは、祈りと文学はその祈られる主体に「届く」ことがほとんどないということだ。祈りと文学は密やかな営みであり、祈りを捧げられる者の魂の救済になることはほとんどない。

確かにそうだ。死者に向かって安らかにありますように、と祈ってもそれが達成されているかどうかは、生きる者にはわからない。

ふたつめは、文学と祈りの無力さだ。小説も祈りも、「起きてしまった過去」についてへの応答である。今回のロシア=ウクライナ戦争が早く終結しますように、と祈るのも「起きてしまった過去」への応答であるし、文学は未来を予測はできるが、現実にそうあるかどうかはわからない。

祈りや文学が現実を即自的に変えることはないだろう。ではなぜ、この無能で非効率な祈りや文学が人間には必要なのだろうか。岡はこのように結論づける。

薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手を取って、決して孤独のうちに逝かせることはしないだろう。(中略)だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること、それが私たちにすべきすべてである。だから、小説は、そこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちには祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らに捧げる祈りとして。

(同 p.301)

「起きてしまった過去」。そこから地続きにある現在から、過去に対してできることは多くはない。だからこそせめて、届かなくとも人間は祈るのだと岡の文章は切実さと情熱を持って書かれている。

「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」この言葉も神学者であるラインホールド・ニーバーの「祈り」の言葉である。文学は「起きてしまった過去」への知恵を与えてくれる。

まとめ それでもなお、文学は祈りつづける

文学が与えるのは知恵だけではない。祈りの言葉が届くことはめったにない。しかし文学は、祈った先ではないが祈りの言葉が「届く」ことがある。時代・宗教・文化背景が違っていても文学は人間の営みとして、綿々と続いている。

アーザル・ナフィーシーの文学的回想録『テヘランでロリータを読む』(河出文庫 2021年)がその例に挙げられるだろう。

テヘランの大学で英文学を講じていたナフィーシーは、1995年、抑圧的な大学当局に嫌気がさして辞職。ナフィーシー自ら選んだ優秀な女学生と自宅の居間で読書会をはじめた。取り上げた小説はナボコフ、フロベール、ジェイムズ、オースティン、ベロウ、フィッツジェラルド、エリオットたち。どれもイラクでは禁書の西洋文学だ。背景にイスラーム革命後の全体主義と女性への抑圧が重々しく書かれている。

『テヘランでロリータを読む』で、文学には「祈りとしての文学」が受け継がれていることを実感した。私には、イスラームの休日についての知識は無いし、ヒジャブとブルカの違いもわからないが、オースティンの『高慢と偏見』に出てくる、フィッツウィリアム・ダーシーに憧れる少女に共感することができた。時代・宗教・文化背景が違っていても、文学は「届く」のだと感動してこの『テヘランでロリータを読む』を読んだ。

文学が持つ力は、もちろん祈ることだけではない。しかし文学の持ついちばんプリミティヴなものはやはり「届け」と祈る、その力ではないだろうか。


(注)第二インティファーダ 「インティファーダ」とはアラビア語で「振り払うこと」転じて「蜂起」の意。(中略)第二インティファーダは、イスラームの聖地であるアル=アクサー・モスクをシャロン・リクード党党首(当時)が武装警官隊をひき連れ強行訪問したことを契機に発生。アル=アクサー・インティファーダとも呼ばれる(『アラブ、祈りとしての文学』 p.18)

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