映像と小説の狭間で。『きみの瞳が問いかけている』

 現在公開中の映画、『きみの瞳が問いかけている』には、ノベライズされたものがある。

 今回は、その映画と小説との比較論を試みたいと思う。それをするにあたって、まず本作品のあらすじを記したい。小説は映画作品のノベライズ本であるので、その内容に差異があることはほとんどない。

 偶然か必然か、雨の日に出逢った塁と明香里は、互いに心を通わせ惹かれ合っていく。

 明香里の透き通る瞳には、塁の姿は映っていない。彼女は、過去に経験した事故によって、視力と両親を奪われていた。ひたむきに生きる明香里と、ただただ生命活動を繰り返す塁。

 幼い頃に目の前で母親を亡くした塁は、明香里の明るさに触れて、少しずつ幸せを取り戻していく――はずだった。

 ある時塁は、自身が彼女の人生を大きく狂わせてしまった存在であることに気付く。

 幸せにしたいと願えば願うほど、二人の距離は遠のいていく。愛したい、愛してほしいのに、本当の想いは届かない。

 「運命」によって揺れ動く愛情の、行きつく先はどこか。

 以上が、本作品のあらすじである。

 映画と小説の比較論は、この世に数えきれないほどあるだろうが、その類のものを読んだことがない私は、何を書けばいいのか分からなかった。ただ、答え合わせのように比較論を読んだとしたら、私はその記事に引っ張られてしまうと思ったから、今回は正解を見ずに、私の感性でこの記事を書き上げたいと思う。

映画では映像が、小説では、心がみえる。

 私が先に入り込んだのは、小説の世界だった。もともと、ノベライズ本を先に読んでから映画を観に行こうと決めていた。面倒くさがりな私のことだから、映画館に行くのはきっとずっと後になる。だったら先に本を読んでおいた方が、気が休まるだろうと思って本を手にした。

 その後に映画を観に行った。展開は全てわかっている。そこで、気付いたことがある。

 小説の中にあった心理描写が、映画にはない。

 当たり前かもしれないけれど、登場人物の心情をその都度つらつらと説明してくれるナレーションが入っていないのだ。そこで思った。映画は、映像が見えるのに、心を見るのが難しい。小説は、映像が見えないのに、心はすごくよく見える。

 塁は、彼女の外見を(照れなければ)隅々まで見る事が出来るけれど、自らの心を上手に表現することができない。明香里は、彼の姿を見る事ができないけれど、自らの心をそのまま彼に伝える事が出来る。

 外見は、先入観になる。偏見をなるべく持たないようにしようとしている人であっても、それによって少なからぬ誤解をしていることはきっとある。外見を取っ払ってしまえば人間は、骨と皮になる。あとは血液、細胞? ……いや、私は、もっと奥の部分の話がしたいのだ。そう、心。

 明香里には、心が見えている。私はそう思う。それは、他人の考えをテレパシーのように見抜ける能力ではなく、先入観のない、真っすぐな瞳で、人間を見ているということ。

 小説の世界にも似たようなものがある。

 映像は見えないけれど、言葉によって紡がれた世界を、色を、音を、匂いを、私は頭の中で想像する。それはもしかしたら、現実よりもずっと耽美できらびやかな世界かもしれない。

 映画はさわれないけれど、小説はさわれる。

 小説世界は、本を媒体として、その肌触りを楽しむことができる。少し乾いたような紙の手触り、弱い力で私の手を押し返す裏表紙。

 「顔を見たいの」

 そういう明香里は、塁の顔を、愛犬にするみたいに優しく撫でまわす。「触れること」、それが彼女にとっての、大切なコミュニケーションツールであった。塁の顔に触れること。ボランティアとしてのマッサージで、患者に触れること。愛する人と見つめ合いながら、その心に触れること。
 彼女はよく心を見ている。だから、「僕は答えなければ」ならない。

鮮明な映像、心に迫る音楽

 映像作品では、登場人物のぼやっとした輪郭も、全てが鮮明になる。服装も、表情も、声色も、興奮も、悲哀も、苦悩もぜんぶ。

 耐えられない。

 それが率直な感想だ。こみ上げてきた涙を、堪える事が出来ない。幸い館内は暗いので、好きなだけ泣かせていただくが、小説では泣けなかったシーンでも、映画で再現されてしまうと涙を流さずにはいられない(私の想像力が貧弱なだけというのもあるかもしれないが)。

 もう一つ、小説にはなかったものが、映画にはある。それは音響だ。

 明香里はよく、『椰子の実』を歌う。遠い島から流れてくる椰子の実。それを胸に抱くと、ひとり旅の憂いが身に染みる。概略してしまえばそのような歌である。人生はいつだって一人旅だ。自分は自分でしかいられないし、他人と同じ人生を歩むことなどできない。

「私にも帰る場所があるんだって歌」

 明香里は塁にそう話す。彼女が自分を投影しているのは、知らない島に流れ着いた椰子の実か、それとも一人の旅人か。柔らかい声で紡がれる歌は、やはり音として体感するのが心地よい。

 明香里と塁は、椰子の実の代わりに、浜辺であるものを拾う。それはシーグラスだった。ガラスの破片が、波に洗われて丸くなったものだ。

「いっぱい傷ついてきた人は、そのぶん優しくなれる。だから、つらい思いをしてきたことにも、きっと意味があった」

 それぞれの理由で親を亡くしている明香里と塁。そんな二人だからこそ、太陽の光を透かすシーグラスのように、優しくなれる。

 明香里はどんな時でも未来を見ていた。その瞳に、明日を映していた。名前の通り、あかりのような人。そんな彼女に照らされたから、塁は生きる希望を見出せたのかもしれない。

 この映画の主題歌は、BTSが歌う「Your Eyes Tell」である。青く深い歌声で彩られる曲の世界は、私の心を震わせる。

「君がくれた場所は今も 心の拠り所でいるのさ」

 心。

 愛する人がくれたものは、心の拠り所だった。そこはきっとカラフルで、美しくて、暗闇さえも、あなたが照らしていてくれる。「過去と未来、向き合うために」想い続けた“今”は、「君と歩む明日へ」繋がっているはずだ。

「愛されたい 愛せるよう 瞳になるよ これからの旅に」

 この部分は特に胸に刺さるものがある。「愛されたい」……切実な願いが心に滲む。

 誰を「愛せるよう」? それは、相手かもしれないし、自分かもしれない。あなたを、そして私を愛するために、瞳になる。導いてあげる。

 視力を失った明香里の、これからの人生を、塁が導いてあげる。いや、きっと違う。明香里が塁の、そして塁が明香里の、瞳になろうとしている。それは互いを照らす光である。

 どんなに進んでも、人生の旅路はひとりで歩まねばならない。だけど、人と人は寄り添うことができる。胸に抱いた椰子の実に憂うのも、二人ならきっと寂しくない。

 小説では味わうことの出来ない素晴らしい音楽を、ぜひ映画館に足を運んで、全身で感じてほしいと思う。

きみの瞳が問いかけている

 因果は回る。自分がしてしまったことは、巡りに巡ってこちらへ返ってくる。この作品の設定は、非常に残酷であると思う。愛されたいのに、愛したいのに。愛するがゆえに、傷も深くなる。

 どんなことをしても「過去」は変えられない。なくしてしまったものは戻らないし、吐いてしまった言葉は返らない。正しさなんて分からないけれど、人を傷つけず、そして心に素直に生きていけたらと強く思う。

 目は心の窓であるという。瞳は全てを映している。だから、「Your Eyes Tell」。瞳が問いかける。

 明香里は塁の心に触れた。彼女はその瞬間、彼の瞳を見たのだと思う。目を上手く合わせることができない塁も、やっと彼女の瞳を覗いて、その時明香里の心に触れた。

 私は近頃、人間の心を見ることができなくなっていた。様々な情報が溢れる世の中で、外見から人間を判断することが多くなったように思う。

 ある時、「Don’t judge a book by its cover.」という素敵な言葉に出会った。それを実践するのは案外難しい。

 瞳に、心に問いかけたい。私の素直な心で、瞳で。

 余計なものにとらわれない。ただ、そのひとの心を見たい。きっとその人の瞳も、私に何かを問いかけているはずだ。

 心の細かいひだを撫でるならば、小説。美しい音楽と可愛い犬に癒されたいのならば、映画。どちらに触れても、感じるものはそれぞれにある。あなたの感性で受け止めたものは、あなたの瞳にそのまま映ることだろう。

執筆者

表現することは、生命維持活動の一つだと思っているひと。個性や関係性に興味があります。

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