『CARVER’S DOZEN』――レイモンド・カーヴァー入門

レイモンド・カーヴァーという作家には、日本でも熱狂的なファンがいる。

また村上春樹がカーヴァー作品全ての日本語訳を担当しており、そのような理由で「レイモンド・カーヴァー」という名前を聞いたことがある人も多いと思う。

今回はレイモンド・カーヴァーの入門書と言ってもいい『CARVER’S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』(1994年 中公文庫 以下『ダズン』)を紹介していきたい。カーヴァーを好きな方にも、まだカーヴァーを知らない方にも、カーヴァーの魅力を知ってもらいたい。

レイモンド・カーヴァーとは

レイモンド・カーヴァーとはいったい何者か? 知らない人に向けて、略歴を記す。

1939年、アメリカ・オレゴン州に生まれる。現場作業員などを職を転々としながら小説を書く。
1977年、短編集『頼むから静かにしてくれ』が全米図書賞候補作になる。
1983年、同じく短編集『大聖堂』が全米図書評論家サークル賞およびピュリッツァー賞候補になる。
1988年、肺がんのため死去。

レイモンド・カーヴァーは短編小説の名手だったが、小説を書きながら詩やエッセイも書いた。いずれもとても評価が高い。

「ダズン」の作品集

「ダズン」とは英語で「12」という意味がある。カタカナ語風に言うと「ダース」だ。『ダズン』は、これも村上春樹が訳した――『レイモンド・カーヴァー全集』全8冊(中央公論新社)から選ばれた、「村上個人選・レイモンド・カーヴァー傑作集」とも言える。

村上春樹はあとがきで以下のようなことを書いている。

この『カーヴァーズ・ダズン』という本は、できることなら「これ一冊あればレイモンド・カーヴァーの世界が一通り見渡せる」といったようなものにしたかった。(中略)もっと簡単に「入門者用」と言っても差しつかえないかもしれない。

『ダズン』 p343

しかし『ダズン』を入門者用といってもあなどってはいけない。全集の中から選ばれた、エッセンシャルなカーヴァーの小説と詩が収められている。

「足元に流れる深い川」――ベスト・オブ・カーヴァー

夫であるスチュアートが遠出したときに、少女の死体を見つけた。スチュアートはそのまま遺体を無視して、釣りを楽しんでいた。そのためか、妻のクレアの心は乱れていた。

「とにかく窓だけでも下しなよ。窒息しちゃうぜ」彼は私の乳房と脚を見る。スカートが膝の上までまくれあがっている。彼の目は私の脚をじろじろと見ている。でも私はじっとしている。動くのが怖いのだ。
「私は窒息したいのよ」と私は言う。「わからない? 私はいま窒息してる最中なの」

『ダズン』 p131

私はこの小説を初めて読んだとき、雷に打たれたようなショックを受けた。

カーヴァーの文章は平易な言葉で書かれている。しかしそこに書かれているクレアの感情は絡まり合いすぎて、もはやどれが主軸となる感情か、わからなくなっている。クレアは日常が浮かんでいるように感じている。この感覚をぜひ「足元に流れる深い川」を読んで感じて欲しい。そして、クレアほどではないが、ショックな出来事が起こると日常がどこか遠くに感じることを、読了すると共に思い出すだろう。

女性と男性のディスコミュニケーションや、生活が遊離するほどの出来事にみまわれた時の不思議な行動。それを描いていることが、私にとっての「ベスト・オブ・カーヴァー」たる理由である。

原題は “So Much Waters So Close To Home. ”直訳すると「こんな沢山の水が、こんな近くにあるのに」。村上春樹による「足下に流れる深い川」という意訳は、彼の翻訳の仕事のなかで、素晴らしい訳のトップ5に入るであろう。

「大聖堂(カセドラル)」――あなたは本当に「見えている」のか?

妻の友人である盲目のロバートが、主人公夫婦の家に訪ねてくる。

「申し訳ないと思うんだけど」と私は言った。「大聖堂がいったいどういうものなのか、あなたにうまく伝えることができないんです。まったく僕の手には負えないんだ。さっき言った以上のことは言えないんです」

『ダズン』 p181

たった文庫本の30ページで、これほど主人公の心境が変化に富んでいる小説を、私は他に知らない。間違いなく「大聖堂」はカーヴァーの傑作だ。

最初、主人公はロバートを面倒な人間だと思って嫌々に接する。まったく困った状態だ、と。主人公は変化を恐れ、マンネリ化している生活を過ごしている。それをロバートがかき乱す。しかしある程度リラックスしてきたとき、テレビに「大聖堂」が映る。主人公は引用した通りに、大聖堂を説明できない。

そこからこの物語は「転調」する。

私はこの小説を読んでから、ときどき考える。私は本当に物が「見えて」いるのだろうか、と。そしてイメージが湧くように小説が書けているだろうかと。例えば「カーヴァーの短編集がある」と書く。しかしこれでは視覚的ではない。「キーボードの左隣りある読書台にカーヴァーの短編集が挟まれている。文庫本は黄ばんでいて、所々に付箋が貼られている」。

最初に書いた文と後の文はどちらが、イメージを持っているか、言うまでもないだろう。目の見える私(たち)は物事を、イメージを大事にしない。そんなことを気づかせてくれるのが、「大聖堂」だ。

そしてこの小説には「チェリー・パイ」が何度か出てくる。その美味しそうな描写に、食欲がそそられる。カーヴァーの小説には変わった、手の込んだ料理は出てこない。しかし素朴だからこそ、そんな食べ物がカーヴァーの小説の中で重要で、日常生活を印象づける。

「ささやかだけれど、役にたつこと」――「どうしようもない時」に

ハワードとアンの息子のスコッティーは脳震とうを起こして病院に運ばれる。スコッティーが目覚めるのを待つ、ハワードとアン。

これまで彼の身にはとりたてて悪いことは何も起こらなかった。そういう暗い力から、彼はずっと身を遠ざけていた。ツキが落ちて、いったん風向きが変われば、その暗い力は人の身を損ない、足をつかんでつかんで引きずりおろしもするものだということを彼は承知していた

『ダズン』 p225

引用部分をよく読んで欲しい。一語一語に難しい単語は使われていない。しかし一文は長く、「暗い力」というネガティブな意味を持つであろう言葉が出てくる。カーヴァーは簡単に書いているが、この「暗い力」とはいったい何なのだろうか? 本文を読むと「暗い力」との対比される言葉が出てくる。その言葉は慎ましく存在していて、読み落とす可能性もあるだろう。

私は精神的に「どうしようもない時」に「ささやかだけれど、役にたつこと」を読んだ。短編小説であるし、そんなに難しい漢字も並んでいない。そんな小説はかっこうのヒマ潰しになるだろう、と高を括っていた。しかし「足元に流れる深い川」、「大聖堂」そして「ささやかだけれど、役にたつこと」読んで、カーヴァーの大ファンになってしまった。

特に「ささやかだけれど、役にたつこと」は私の失望と失望の間にすっぽりと収まり、その両端にある失望を、ゆっくり溶かしていくような小説だ。私はそのとき「どうしようもない」くらい失望の影に身を置いていたことを知った。カーヴァーは下手な励ましをしない。そして「どうにかなるさ」と楽観論も書かない。ただ淡々と「どうしようもない時」に「ささやかだけれど、役にたつこと」を教えてくれた。本当にささやかなことで、基本的なことだ。失望で途方に暮れている時、「どうしようもない時」、カーヴァーの『ダズン』は嫌味なく隣に座ってくれる古くからの友人のようだった。そんな小説をあなたは読んだことがあるだろうか?旧友である新しい友人・『ダズン』をぜひ迎えて欲しい。

終わりに――村上春樹とレイモンド・カーヴァー

レイモンド・カーヴァーを語るとき、欠かせない人物。それはカーヴァー作品の訳者・村上春樹だろう。村上春樹は、「足元に流れる深い川」を初めて読んだときに「僕はこれ一発で見事レイモンド・カーヴァー中毒の世界に引きずり込まれれることになった」と書いている(『ダズン』 p100)。その中毒のおかげで『レイモンド・カーヴァー全集』全8冊を訳している。彼はカーヴァーの日本一のマニアであることは間違いない。

村上春樹がカーヴァーに会ったのはたった1回きりだった。大きな体躯をしていたカーヴァー。その死を「大木が倒れるようなものだったのだろうな」(『ささやかだけれど、役にたつこと』1989年 中央公論社 p265)と例えている。

しかしそれだけではない。春樹はカーヴァーの死を以下のように感じていた。

小説という世界を通して彼の人となりを僕は僕なりにとても鮮やかに明確に感じることができた。あるいは感じとれたような気がしていた。だから彼を亡くしたことは、最良の友人の一人を亡くしたのと同じことのように感じられたのだ。

『ささやかだけれど、役にたつこと』 p263

私は春樹の言葉に頷くしかない。小説を通して私は確かにカーヴァーの核心に触れることができたと思う。それは豊かな本でしかできることではなく、私は恵まれた読書体験ができたのだと信じて疑わない。

私は本を友人だと思っている。小説という友人。そんなようにに書くと、よほど友だちがいないか、と心配されそうだ。しかし自分が孤独なときほど、本は私に寄り添ってくれる。孤独の耐え方を教えてくれる。そんな本は何冊あってもいいだろう。『CARVER’S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』は間違いなく、私の友の一人だ。

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