私小説の救世主“ケンタ”未完の遺作 / 西村賢太『雨滴は続く』レビュー

第144回芥川賞の選考会/発表会の結果は文壇の外側にも大きな波紋を広げた。三井財閥の末裔でフランス文学者/詩人の父を持つ朝吹真理子と、中卒で前科者の西村賢太という両受賞者の格差は、メディア的にも恰好のネタだったのだろう。受賞の報せをどこで聞いたか、というお決まりの質問に「そろそろ風俗に行こうかと思っていた」と衒いもなく話すケンタ(と、あえて呼ばせてもらう)。その名シーンはワイドショーでも幾度となく放映され、話題となった。

ケンタは私小説の救世主だった。小谷野敦『私小説のすすめ』にも、将来有望な私小説家として紹介されている。父親が性犯罪で捕まった話から、風俗嬢に金を持ち逃げされる顛末まで、その小説はほぼすべてが実体験。北町貫多というケンタの分身らしき主人公の無為無策な生活ぶりが綴られるのは、未完の遺作『雨滴は続く』でも同様だ。

同書からは貫多の性格が滲み出る。小心者で、自分に甘く、短気で、疑い深く、他人に厳しく、嫉妬深く、プライドが高い。それでいて志が高く、感受性が鋭く、わずかに優しいところもある。それがケンタ、いや、北町貫多だ。実存的な苦悩に苛まれるインテリではなく、すぐキレる中年男性を主人公に据えることで、本書は一層のおかしみを誘う。過去作では、実家の母親から強引に金をむしりとったり、家賃や借金を踏み倒したりするなど、その徹底したダメ男っぷりは、失笑する他ないほど滑稽に描かれている。本書での貫多はそれらと較べると、いくぶんか人間的に成長したようにも読める。

ケンタは、常に愚行を犯す主人公を一歩引いた目で戯画化している。それは文体の操作にも顕著で、「俺」ではなく「ぼく」、「そば」ではなく「おそば」と記される。これこそがセンスというものだ。つまり、ケンタは元々小説家として卓抜な巧者であり、確信犯的にアナクロな言辞を弄していたのである。

自分の性格に言及する時、「根が馬鹿の中卒」「根はこう見えて案外育ちの良い」「根がスタイリストな割りに、案外夢想家」などと枕を置くケンタ構文も執拗に振りかざされ、落語のような口調で会話は小気味良く進む。「はな」「結句」「向後」「購(もと)める」「慊い(あきたりない)」「ほき捨てる」など、古めかしい言い回しの多用も功を奏している印象だ。カタカナ英語をここぞと言う場面で使う傾向もあり、風俗嬢を自分にとっての「エターナルラバー」、編集者の印象を「インチメート」と形容するのには噴き出してしまった。

ケンタは自分の逝去直前に石原慎太郎の追悼文を書いているのだが、奇しくもというべきか、石原も芥川賞の選評で唐突にカタカナ英語を頻繁に持ち出す。「ジェニュインなものがどこにもない」(伊藤比呂美『家族アート』を評して)、「今回の芥川賞についてはコンティニュイティのない」(辻仁成と柳美里のW受賞に際して)といった具合だ。

そして、賢太は「キ印」と本人が書いている通り、重度の私小説オタクだ。十代の頃は日雇いの肉体労働をしながら小説を渉猟し、その魅力に毒された。特に、不世出の私小説化・藤澤清造への献身的なまでの思慕は本書でも揺るがない。藤澤の没後弟子の資格だけは死守したいと、月命日には毎回能登まで遥々赴き、自宅には藤澤の木製の墓標をケースに入れて飾っているほどだ。

本書でも強調されているように、現代の小説などまるで興味がない貫多が、文芸誌への原稿の掲載ににんまりするのは、藤澤清造と同じ雑誌に小説が載ったからである。そんな貫多は、『雨滴は続く』でふたりの女性と出会う。新聞記者と風俗嬢だ。貫多は両者との間で「岡惚れの反復運動」を繰り返し、自分勝手な妄想をしては、手紙やデートの結果に一喜一憂する。

「不快な露悪と貧乏看板と軽佻浮薄が表面で澱みたく漂っている」と自分の小説について自虐的に述べていたケンタは、日頃からの不摂生もあってか、今年二月に五十四歳にして不帰の客となった。あと五十枚。長期に渡った連載はあと五十枚ほどで仕上がるはずだった。完成すれば、間違いなく大業となっただろう。

未完の本書を読む限りでは、過去作と異なって暴力描写はない。これまでで最もプラトニックなケンタの恋愛は、その後どんな展開を見せるのか。行く末が宙づりになったがゆえ、この書評も結末を叙述することなく終わる。残念だが続きはいずれまたの機会に。

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ライター。『ミュージック・マガジン』『レコード・コレクターズ』『ダヴィンチWEB』『キネマ旬報』などで、音楽評、書評、演劇評、映画評などを執筆中。仕事になっていない趣味は美術鑑賞。大森靖子が好き。