誰もが知っているアノ物語をモチーフにした戦後文学――「シンデレラ」「アルプスの少女」「マッチ売りの少女」――


戦後文学の多様なアプローチ

原爆投下による敗戦後、GHQの管理下で「民主主義」が多くの矛盾を孕みながら推しすすめられていくなか、バラエティに富んだ書き手と文学作品が次々に生みだされていった。作家たちは検閲と闘いながら戦後の日常を克明に再現しようと試みたり、あるいは戯画的に描いてみせたりと、色んなアプローチで創作活動をはじめたのだ。その手法のひとつに童話のアレンジがある。童話といえば、シャルル・ペローの「シンデレラ」、ヨハンナ・スピリの「アルプスの少女ハイジ」、H・C・アンデルセンの「マッチ売りの少女」等がすぐに思い浮かぶ。誰もが知っていて、世界中の老若男女に親しまれている物語だ。しかし、これから紹介する三人の戦後作家は、これらの童話にひとひねり加え、まったくちがう物語に作りかえてしまったのである。優れた童話のアレンジに太宰治『お伽草子』(1945)があるが、今回にいたっては童話の「破壊」といったほうが適切かもしれない。

占領下の「シンデレラ」ストーリー

はじめに紹介する安岡章太郎は「第三の新人」に数えられる戦後文学の担い手である。「弱者の眼」を持って書かれた心境小説や、戦後の変容を反映した家族物語で知られているが、安岡のデビュー作は芥川賞候補にもなった『ガラスの靴』(1951)。これは表題のとおり「シンデレラ」をモチーフにした小説だ。

左は安岡章太郎と愛犬コンタ(高知県立文学館)。代表作に、死を待つ痴呆の母を見舞う主人公「信太郎」の心境に荒涼たる風景を重ねた『海辺(かいへん)の光景』(1959)、家族のテーマをより掘り下げた『流離譚』(1981)がある。右は私物コルクボード装丁の稀覯書。

『ガラスの靴』の主人公は、猟銃店で夜番をする「僕」。仕事の関係で米軍軍医「クレイゴー中佐」の豪邸に仕えるメイド「悦子」に出会い、恋の魔法にかけられる。クレイゴーが日本を留守にする「夏休み」のあいだ、電話をかけて豪邸を訪ねては悦子と戯れ、やがて性的な交わりに発展していく。しかし、シンデレラの魔法は時間とともに解けてしまう。クレイゴーの帰還が二日延期されるのだが、「僕」はその貴重な時間をまるで「ガラスの靴」を手にしたみたいだ、と感じる。クレイゴーの帰還によって悦子と会えなくなった「僕」は彼女に電話をかけるフリをして、受話器を握りしめたまま離さない。そうしていると、回線の向こうから悦子の声が聞こえてくるようだ……。

ジープの行き交う占領下の世相を反映した筋書きに反して、リアリティーを削いだ「おとぎ話」のような文体と展開で進行する本作は不思議な読後感をかもす。シンデレラである悦子と王子さまである「僕」の豊かな関係性は、ふたりでアメリカのお菓子を食べ、きれいな豪邸で無邪気に戯れることによって育まれてきた。舞台となったクレイゴー邸には「めずらしい」冷蔵庫があり、物質的には何ら不自由のない「特殊な空間」だった。だからこそこの物語は成立した。そもそも当時はふたりを繋いだ電話すら普及していない。まさに占領下のシンデレラストーリーである。

左、GHQを率いるマッカーサー(Hollywood Archive Age Photostock)。右、ギュスターヴ・ドレ作『シンデレラ』(1867)

爆弾を落とされる「アルプスの少女」

一方で「童話」じみた豪邸の裏側には、腐朽したバラックがひしめき合い「人命より物質が優先される」闇市が形成されたことも、戦後文学は書いている。石川淳は伝説や童話を下敷きに、安岡とは違うタッチで戦後空間を活写した。上野の闇市で盗みをはたらく戦災孤児の背中に神の降臨を見たり(「焼跡のイエス」1946)、戦争未亡人が黒人兵に抱かれた瞬間、主人公の止まった懐中時計が針をすすめるといったアイロニーに戦後の出発点を見定めた(「黄金伝説」1946)。

そんな石川のアイロニーが最も発揮された作品が「アルプスの少女」(1952)。後に『おとぎばなし集』(1977)にまとめられた本作のモデルはもちろん「アルプスの少女ハイジ」であるが、表題から除外された「ハイジ」は出てこない。あの「アルムじいさん」も出てこない。名前だけは頻繁に出てくるものの、両者とも実体のない概念のみの存在として表象される。この小説は童話のような書き出しではじまるが、「クララ」や「ペーテル」の暮らす牧歌的な山の麓に「どかーん」といきなり爆弾が落ちてくる。その瞬間、新緑の風景はモノクロの煤煙に暗転する。途端に戦争がはじまり、クララは「酷い目」にあい、ペーテルは戦場に駆りだされ「アルムじいさんのような顔」に老けこんでしまう。荒涼としたフランクフルトの焦土にクララが立ち「もう一度」「むかしよりみごとな、あの虹のようにうつくしい町をつくらなくちゃ」と言って話は終わる。「虹」は敗戦国日本の標語であり、語り手がクララにこれを「言わせる」ところに鋭い風刺がある。この言葉は希望よりも虚無を感じさせる。空に虹がかかろうとも、山麓に広がるのは暗渠のような風景だからだ。そこにハイジの姿はない。名前はあっても姿のない「ハイジ」という概念は、戦争で会えなくなった他者の幻影に他ならない。アルムじいさんと化したペーテルも、実体を消されたハイジも、戦争の不可逆性を象徴する。石川は戦争がもたらす不条理を荒唐無稽なパロディで際立たせながら、かつて「マルスの歌」(1938)で障害となった検閲の問題をクリアした。

左は『日本近代文学大事典』より。代表作に理想と現実の乖離にもがく作家の苦悩を綴った芥川賞受賞作『普賢』(1936)、ウソにまみれた軍歌や国策映画の欺瞞を暴いた「マルスの歌」(1938)は日中戦争下で発禁処分になった。中央は『朝日新聞デジタル』より闇市の様子。右は「アルプスの少女」が収録されたもののなかで最も入手しやすいであろう講談社文芸文庫の短編集『戦後短編小説再発見⑩』

売春する「マッチ売りの少女」

焦土と闇市のなかで育った作家に野坂昭如がいる。『火垂るの墓』(1967)のような作品は稀で、刑法175条「わいせつ物頒布罪」にあらがうように過剰な性描写と頽廃的な寓話を紡いだ作家である。野坂は石川淳から受け継いだ語りで、西成の「ドヤ街」で春をひさぐ少女にアンデルセン童話を重ねあわせた。それが「マッチ売りの少女」(1966)である。

主人公「お安」は、本当の父親を知らない。お安の家にいるのは母親と継父、たまに出入りする情夫である。14歳になったお安は情夫から突然抱きすくめられ、その温もりの中に「血の繋がった本当の父親の影」を幻視する。浮気がバレた母親は継父に殴られながら、お安の体を担保に差し出す。やがて継父は死に、寝たきりとなった母親を始末したお安は「お父ちゃん」を求めてキャバレーや吉原を流転。多数の客と交わり病気になり果て、宿を追い出されてしまう。西成に戻ったお安は、暗がりの公園でマッチを擦っては酔っ払いに性器を見せて日銭を稼いだ。このときお安は24歳だった。にもかかわらず、50歳に見えるほど老けこんでいる。酔いがさめた客はお安の容貌を気味悪がり、寄り付こうともしない。最後に擦ったマッチの炎が衣服にひろがり、お安は焦げたマッチ棒のごとく「燃えかす」になってしまう。アンデルセンのラストは少女が祖母の幻影に抱かれながら「天国」に昇っていくというものであるが、炎に包まれたお安は父親の幻影に抱かれながら死んでいく。原作が「まばゆい光」を放つのに対し、野坂は「それも消えて闇。」と結末をつけ、物語を「闇」の中に溶暗させる。

売春の自覚もないまま、ひたすら父親の影を探しもとめて彷徨する「お安」の物語を通して、野坂は性と貧困の癒着をあばいた。そこに描かれるのは、極限状態において貨幣にすら「換算」されず、物質以下になりさがった身体性である。

野坂昭如(1930~2015)。焼跡闇市派を自称し、代表作に占領に諂うことへの嫌悪を大阪弁で綴った「アメリカひじき」(1967)、兄妹姦のもとに妖しい花が咲き乱れる『骨飢身峠死人葛』(1969)がある。左の野坂は『神奈川新聞デジタル』より。右は「マッチ売りの少女」を収録する『戦後短編小説再発見②』

再構築される戦後

「シンデレラ」「アルプスの少女」「マッチ売りの少女」。今回ピックアップした小説は既存の童話を再構築し、戦後の再出発を模索したものだ。童話とは夢や希望を謳い、慈悲や教訓を説く情操教育の物語である。しかし、戦後文学が語った童話は乱脈をきたし、混沌にもつれこむ。換骨奪胎された戯作には、占領や兵器、性というテーマが設けられ、偽りの社会秩序や不自然に歪められた人間性が追求される。安岡は占領がもたらした恋愛の期限を「ガラスの靴」に喩え、石川は壊滅した「アルプス」の風土に敗戦国日本の焦土を転写し、野坂は「マッチ売り」の童話を焼きなおして貧困と売春に焼尽する身体性を炙りだした。いずれも観念的な虚構を描く童話の手法を逆手にとって、欺瞞に満ちた戦後社会の告発を試みた抵抗の文学である。アレンジされた物語とレタッチされた肖像は「戦後」という荊棘の道に迷いこんだまま、原作のように読みつがれる機会を待ち望んでいる。

この記事に登場する作品が収録されている本


執筆者

梛木 愼太郎

2015年、文学修士号取得。 クライアントの意向に沿って商業や美容に関する文書を作成するゴーストライター。生計を立てるためにビジネス文書を作成しながら、生きていくために好きな文学のことを書きたい。