2021年12月にジャンプ+で連載スタートし、2022年3月に完結したタイザン5『タコピーの原罪』。
本作はハッピー星からハッピーを広めにきたタコピーと、小学4年生のしずかの出会いから始まる漫画です。
デフォルメの利いたファンシーな絵柄に反し、子どものいじめや虐待問題を扱った毒親ものの側面が強く出た本作は、胸糞悪い展開が連続する鬱漫画として絶大な支持を得ました。
作者のタイザン5は過去にジャンプ+で『キスしたい男』『ヒーローコンプレックス』などの読み切りが反響を呼んだ新人漫画家です。
そんな彼はジャンプルーキー!に掲載されたインタビューで、影響を受けた作家として伊坂幸太郎と重松清の名前を挙げています。
小説は重松清先生や伊坂幸太郎先生の作品をよく読んでいます。芥川賞を獲られた町屋良平先生の『1R1分34秒』も面白かったです。
上記のインタビューがきっかけで、重松清と伊坂幸太郎に興味を持った方もいるのではないでしょうか?今回は『タコピーの原罪』と両者の著作に共通する物語構造を深堀りし、考察していきたいと思います。
この記事の目次
重松清『疾走』は「おはなし」で救済されなかったタコピーの裏面?
※以下、ネタバレを含みます
『タコピーの原罪』は、一言でいうとタコピーが「しずかちゃんを笑顔にしたい」と頑張る話です。
しかしタコピーが提供するハッピー道具はことごとく裏目に出て、犠牲者を増やしていきました。
しずかは第一話にて「空なんて飛べたって何も変わらない」と諦観しています。実際それはその通りで、空を飛べたところで彼女の家庭環境が改善されるわけではありません。
ここで私が思い出したのは重松清『疾走』。
本作は神の視点で誰かが「おまえ」ことシュウジに語りかける形式で進む、極めて珍しい小説です。
主人公は地方都市に住む中学生のシュウジ。
寡黙な父親と気弱な母親、優等生の兄に囲まれた彼は、足の速さだけが取り柄の平凡な少年でした。
ところが兄が犯した連続放火事件をきっかけに一家離散に追い込まれ、壮絶ないじめや迫害にさらされます。
しずか・まりな・東と『疾走』に登場するシュウジやエリの共通点は、「空なんて飛べたって何も変わらない」境遇におかれていること。
何よりそのどうしようもない現実を、本人たちが悟りきっている点です。
父と母が消えた後、シュウジはさらなる生き地獄を体験します。
東京へ逃げたシュウジは自分と同じく大人に虐げられたエリと出会い、シャッターにメッセージを書き残すのですが、このシーンが非常に象徴的でした。
居候先の親戚による性的虐待に苦しむエリは「私を殺してください」と書き、それを見たシュウジは「だれか一緒に生きてください」と続けます。
シュウジの兄は家族を拒絶してひきこもり、「おはなし」ができる状況ではありません。
故に同じ境遇のエリと傷をなめあうしかなかったシュウジの悲哀は、最終話のしずかとまりなを彷彿とさせました。
また、『疾走』におけるシュウジの担任も非常に興味深い人物として書かれています。
彼はシュウジに同情し中途半端に手をさしのべるものの、「可哀想な」シュウジが助けを拒むや、自分の善意が受け入れなかったことを恨むのです。
担任の傲慢な態度で思い出すのは、『タコピーの原罪』14話の東のセリフ。
「助けてあげようなんて思うのが間違ってたんだ」
東は過ちに気付いて反省し、シュウジの担任は偽善を自覚し得ず相手を追い詰める……。
何々をして「あげる」というときに、そこに潜り込むのは相手を見下す優越感と、何々して「あげた」自分への見返りとしての承認ではないでしょうか?
『疾走』と『タコピーの原罪』の思想は根底で深く繋がっているのです。
お前は誰かのどうでもいい人。『十字架』と『タコピーの原罪』が導く人間関係の不等号
重松清の『十字架』と『タコピーの原罪』はいじめを柱にしています。
『十字架』の主人公はいじめ自殺した同級生に遺書で「親友」と名指しされ、遺族に交流を申し込まれました。
実際は親友でも何でもなく、いじめを傍観していただけ。
しかし遺族には言い出せず、自分を親友だと思っていた人間を見殺しにした十字架を背負い続けます。
『タコピーの原罪』にもこの手の気持ちのすれ違いはたくさん描かれていました。
象徴的なのがしずかとタコピー、しずかと東の関係性。
しずかの絶対的一番は飼い犬のチャッピーで、タコピーと東がどうあがいた所で順位は覆りません。
タコピーと東がどんなに尽くしたところで、彼らはしずかの二番以下の存在にしかなれないのです。
あるいは、まりな母を例にとってもいいかもしれません。彼女は心の離れた旦那に執着していますが、旦那はしずか母と不倫に夢中。東母の一番は長男の潤也で次男はできそこないのおまけにすぎません。
最も印象的なのは15話のしずかの叫びで、彼女は両親の一番が自分じゃなくなってしまった現実に対し、やりきれない心情を吐露しています。
一番好きな人が必ずしも自分を見てくれるとは限らない。逆もまたしかり。
一番好きで大事にしてもらいたい人のどうでもいい存在に成り下がってしまっても、人は生きていかねばなりません。
『十字架』のラスト、大人になって家庭を持った主人公は、息子が一番好きな友達の存在を知ります。
勉強も運動もできる人気者の少年はしかし、主人公の息子を「一番の親友」だとは思っておらず、他ならぬ息子本人もその現実に(仕方なく)折り合いを付けています。
『タコピーの原罪』と『十字架』は「一番好きな人の一番になれなかった存在」の復讐劇ともとれ、どうでもいい彼らの傷だらけの悪あがきが胸に刺さりました。
伊坂幸太郎『重力ピエロ』は東兄弟のモデルケース?
ここまで重松清の著作と『タコピーの原罪』の相関性を語ってきました。
では伊坂幸太郎はどうでしょうか?
伊坂作品と『タコピーの原罪』、あるいはタイザン5の共通項として挙げられるのは兄と弟の関係性です。
少し脇道にそれますが、『タコピーの原罪』に代表されるタイザン5作品が血の繋がった親子・家族の地獄を描く一方、伊坂幸太郎作品はフリーダムな疑似家族を描く傾向にあります。
象徴的なのが『オー!ファーザー』で、こちらは四人の父親候補と高校生の疑似家族を中心にしたホームコメディ。
何故父親候補かというと主人公を妊娠中に母親が四股をかけていたからで、結局誰が実の父親なのか、作中では明らかにされません。
しかしそんなことは一切関係なく、四人の父親たちは絶妙の連携プレイで育児に励み、息子と円滑なコミュニケーションをとっていました。
親子間のディスコミュニケーションが問題視される、『タコピーの原罪』とは対照的です。
『オー!ファーザー』作中にて、父親の一人・悟と主人公の由紀夫が実に示唆的な会話をしています。
「いじめっていうのは、みんなが自分さえ被害者でなければいいって思っているから、なくならないんだ」
「それならせめて、俺だけでも被害者になるよ」
由紀男がまだ小さい頃に父親たちは話し合い、自分の子どもがいじめっ子といじめられっ子どちらかしか選べないならいじめっ子になるのを望む、と結論をだします。
一方で同じことを問われた子どもたち、あるいは親たち全員が被害者を選択すれば、世界からいじめや戦争は消えるはずとほのめかしました。
『タコピーの原罪』もこの理屈を反映しており、大人やまりなに虐げられていたしずかは中盤以降加害者に転じ、タコピーは終始被害者のまま消えていきます。したがってしずかを殺す目的は達成できませんでした。
タコピーが善なる被害者のまま消滅したことでいじめが消えた……。しずかとまりなが仲直りできた、というのは勘繰りすぎでしょうか?
また、『重力ピエロ』に登場する泉水と春の兄弟には東兄弟を連想します。
共通点はどちらも弟の側が問題を抱えていること、家族の中で疎外感を抱えていることでしょうか。
春は両親や兄に愛されて育ちますが、実は母親が強姦されてできた子どもであり、自分が生まれ持った絵の才能や優れた容姿すら、実父の遺伝ではないかと疎んじています。
東は母の遺伝が濃いストレートの黒髪を染めた兄を疎んじ、劣等感をこじらせていました。
作中にて東兄弟は本音で話し合い和解に至り、最終回では家庭環境の改善がほのめかされます。
『重力ピエロ』でも春の最大の理解者となったのは泉水でした。
兄または弟が闇堕ちした場合、どん底でもがく片割れを引き上げるのが救済装置たる彼らの役割です。
『ヒーローコンプレックス』『タコピーの原罪』で描かれた兄弟の姿は、『魔王』『フーガとユーガ』その他の伊坂作品に多く登場する、強い絆で結ばれた兄と弟に重なりました。
まとめ
以上、伊坂幸太郎や重松清作品と『タコピーの原罪』の共通項を考察しました。
重松清は家族を主題にした小説を多く書いており、胸糞でエグいいじめ描写や毒親の解像度の高さなど、彼に影響を受けたと思われる点が『タコピーの原罪』に散りばめられています。
伊坂幸太郎は現実ベースの設定にファンタジーやSFのガジェットを落とし込むのが上手く、『タコピーの原罪』の世界観と通底しています。
また、彼の作品は「親子・兄弟の形質の遺伝」をテーマに取り上げているのも特徴で、しずか・まりな・東がそれぞれ何を親から受け継いでしまったか、考察する上でも大変参考になりました。
タイザン5のインタビューを読んで興味がでた方は、ぜひ両作家の小説を手にとってください。面白さは保証します。