戻らない時を私たちは / 読書案内 川上弘美『神様』

西陽が射している。私はそれに煌々と照らされている。
しかしあと一時間経ったらどうだろう。私は影の中に入り、太陽はまた別の場所を照らしている。
時間は不可逆だ。人間が創作したSFの中で、タイムトラベルだとかループだとかいう装置がしばしば登場するが、その倫理観やいかに。不可逆を可逆にできた時、不可能が可能になってしまう。死者をよみがえらせることも、人生をやり直すことも。
時間というのは決して逆戻り出来ないからこそ、価値があるのではないか。

「戻らない時」。それはひときわ、人間にとって意味をもたらす。生命は常に未来に向かって前進のために鼓動を打つ。では過去というものは人間にとって何なのか?
それをたとえば、こう表現してみる。「あの頃の青春」「エモかった瞬間」「SNSで生きたあの子」「手紙の束」「アルバムの中の色あせない記憶」「既読で埋め尽くされたLINE」「フィルムカメラに残った写真」。

戻らない時を私たちは生きている。それを表現しようとした時、自分もまた不可逆の中に存在し、今こうしてタイピングしている文字も、刻一刻と「戻らなく」なっている。
私はそのニュアンスを、光のつぶのような繊細なものを掬いだす試みをしたい。
今流行りのメイクや、バズりレシピを検索している人。猫動画を見ている人。SNSで承認欲求を持て余している人。青春時代を共に生きた曲を聴いて懐かしんでいる人。あの人と見た桜の吹雪を思い出している人。ただ光をじっと見つめている人。

どんな人にも、この文章が届いてほしいと願う。

私の祖父は2年前に他界した。祖父との思い出は東京・墨田区の一軒家に、濃密に詰まっている。私は時おりその家を訪れ、度々強烈な懐かしさに襲われる。祖父が座っていた座布団がまだ居間に残っていて、そこに祖父の面影を見る。祖父は高校野球と相撲が好きで、よく祖母が淹れたお茶を啜りながら、讀賣新聞を床に広げて読んでいた。そして、幼かった私をよく近所の墨田川まで連れて行き、そこでハゼ釣りをした。川べりに向かうまで、私は祖父の漕ぐ自転車の後ろに乗り、祖父の背中にしがみついていた。
その記憶が、まるで生もののように今でもぐっと私の心に近づいてくることがある。その時、祖父が着ていたシャツの手触りと、ごつごつとした背中の感触、衣服にしみついた煙草の匂い、何もかもをついさっきのことのように思い出す。その手触りと、祖父の死が裏表となって、私の中に存在している。生成りの布のように、二枚、うっすらと重なって私の心の中ではためいている。

川上弘美の『神様』という本の中に、「花野」という短編がある。主人公の“わたし”が秋の花野を訪れると、そこに死んだ叔父が現れる。猫のクロが死んだこと、運動量の保存と万有引力の話、葬式饅頭の美味さについて。叔父は色々な話を“わたし”に投げかける。
現れるのはこれが最後だと言って、何か願いごとはないかと叔父が言う。“わたし”は二人で最後の午餐がしたい、と返す。そうして静かに行われた午餐の、叔父の好物が並んだ机。そら豆を食べながら、「こんな味だったんだな」と言う叔父に陽が射して、一枚の絵のようになっている。
「いつかまた会おう」。叔父が消えたあとの花野を、“わたし”は五分ほど佇んでから後にする。

死んだ人に会える、というのはまことに不自然だし、限りなく不可能な話だ。
本作に描かれた短編はすべてがシュールレアリスムの観点から描かれた物語であり、「ありえない」ことが「現実世界で」起こる。「ありえない」出来事を経て、主人公や登場人物たちが抱く「瞬間的な感情と現実的な思考」。相反したものを共立させているこれらの短編はどれも冴え渡っていて、読者を虚<うつろ>と現<うつつ>のはざまにいるような感覚にさせる。
決してそんなこと起こりはしないと思いながら、この花野に行けば祖父に会えるのではないかと思った。同時に、祖父の肉声を鼓膜で感じたいとも思ったし、消えていくのが分かっていてももう一度あの背中にしがみついて、体温を額から感じたいと思った。胸がかき乱されるほど切実に、だ。
祖父の感触を忘れたくなかった。私の中でその感覚はもう過去のものになってしまっていて、「不可逆」という空間の中にあって、どんなに泳いでも、必死にばたついても、その空間の中から祖父の感触だけをつかみ取ることが出来ない。
どうしたって過去になってしまう。そのさびしさだけがきんきんと鳴って、純度と鋭さを増していく。

だけどどうだろう。川上弘美の描くこの花野は、故人に触れることができるし、故人とやり残していたこと、やりたかったこと、そういう願いが叶う場所らしい。たとえ空間を捻じ曲げる力に満ちていたとしても、不条理で、あってはならない場所なのだとしても、私は“わたし”と同じく何度もそこを訪れるだろう。祖父という人間の存在する場所に、夢遊病者のように訪れては執着するだろう。
私は私の中のさびしさを、上手く処理しきれずにいるのだと思う。だからこそ、こういう「救済」が必要なのだ。
近しい誰かを亡くした人の多くが無意識に求める「救済」とは、この事なのかもしれない。

戻らない時を、私たちは生きている。それは時たま無視できないさびしさを呼んでくる。いたはずの誰かがいなくなった時、そこに残った温度に、色がついたように敏感になってしまう。見たい。見ていたい。そう願うようになる。
だけれど彼や彼女は戻って来ない。「今」を生きる私たちとは違う世界に行ってしまったから。
それでも、もがきながら「今」を生きる。苦しくても、からい涙をしこたま流しても、生きる意味とは一体何なのだろう。

川上弘美『神様』を読んで、西陽の薄れた夜の少し前、ゆっくりと考えてみるのも良いかもしれない。

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1992年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科を卒業後、フリーライターとして活動のかたわら創作小説を執筆。昨年度、文学フリマにて中編小説『愛をくれ』を発表。自身の生きづらさを創作に昇華することを目標とする。