小説を書くときの表現力を向上させる「好き嫌いのトレーニング」

読者の心を惹きつける物語には、豊かな表現力が必要不可欠です。一つのものごとの表現は、作者自身の「好き嫌い」に少なからず影響されます。これが重厚な表現を生み出す力になることもあれば、固定観念として表現の幅を狭めてしまうこともあります。

誰もが持っている「好き嫌い」という価値観を、どうせなら豊かな表現のために活かしたいと思いませんか? 今回は、多角的な視点からの表現を習慣づけるためのトレーニングを紹介します。

このトレーニングを習慣づけることで、私は「ある感情を、いつも同じ情景の描写と繋げて表現してしまう」「ある情景について、いつも似たような表現をしてしまう」といった悩みから解放されて、豊かな表現ができるようになりました。

好きなものを嫌いなつもりで書く

例として「公園のベンチでひと休みしているところに、一匹の野良猫が寄ってきた」というシーンを想像してください。

猫好きのパターン

まずは「かわいいなあ」「撫でたいなあ」と顔を綻ばせる猫好きな人の視点から描写してみます。

 ベンチに腰かけた私の足元に、一匹の三毛猫が寄ってきた。毛づくろいを怠っていないのだろう、猫特有の滑らかな毛並みは健康的な艶を帯びている。三毛猫はしなやかな体をぐっと伸ばして、にゃあ、と高く澄んだ声で鳴いた。私は猫が好きだ。

猫の毛並みや柔軟性、鳴き声といったいくつかの特徴を、愛らしい長所として肯定的に表現しました。

猫嫌いのパターン

次に、猫嫌いの人の視点をイメージした否定的な表現をしてみます。

 ベンチに腰かけた僕の足元に、一匹の三毛猫が寄ってきた。猫特有の細かい毛並みはぬらぬらと湿っているかのようだ。三毛猫は奇妙なほど柔軟な体をぐんにゃりと伸ばして、にゃあ、と甲高く芯のない声で鳴いた。僕は猫が嫌いだ。

2パターンの文章について、最後の「私は猫が好きだ」「僕は猫が嫌いだ」という一文だけを入れ替えて読んでみると、なんだかちぐはぐな印象を覚えませんか?

猫好きである作者が「猫嫌いの主人公」を書こうとして「この主人公は猫が嫌いなはずなのに、猫についてやけに肯定的な表現をしている」という違和感をもたらしてしまうと、物語への没入感を削ぎかねません。そうならないために、あえて自分とは異なった価値観からものごとを表現することに慣れておくと役立ちます。

嫌いなものを好きなつもりで書く

次は、嫌いなものを好きなつもりで書いてみます。

雨を嫌う人は少なくありません。「雨具の用意が煩わしい」「湿気が鬱陶しい、洗濯物が乾かない」「空が暗いせいか、なんとなく気分が落ち込む」といった理由がよく挙げられます。

雨嫌いのパターン

まずは雨が嫌いな人の視点に寄って、感情とリンクさせながら表現してみます。

 月子はこれから、交通事故に遭い全身に酷い傷を残したという姉を見舞わなければならなかった。低く垂れた雲が、街を鈍色に染め上げている。傘を打つ雨はザアザアと勢いを増すばかりだった。疲労と緊張のために汗ばんだ手をさすりながら、月子はひゅっと呼吸を乱した。
 容姿に恵まれ、多くの人間に愛され、その影で「引き立て役」だと揶揄された妹の懊悩も知らず、無邪気に微笑み手を取りたがった姉を、月子はずっと憎んでいた。じめじめと纏わりつく湿気が、忙しさにかまけて切りそこねた髪を重くする。鋭く奔った稲妻が、暗く閉ざされた空に爪を立てた。「ざまあみろ」と嘲りでもしてしまったら、心の内で必死に押し留めていた怪物が暴れ出して、これまでの平静な自分を二度とは取り繕えないと確信していた。

フィクションにおいて雨が災難の暗示・象徴として扱われることは、一つのセオリーとして広く受け入れられています。それに則る形で不穏な空気を漂わせました。彼女がどんな結末に至るかはさておき、少なくともこの直後に良いことが待っているとは思えません。雨が嫌いな人はなおさら、雨に対する否定的なイメージと併せて、こういった描写に共感しやすいのではないでしょうか。

雨好きのパターン

次は視点を変えて、好きになれる要素を探してみましょう。

 雪乃は今日、長い片思いに決着をつけた。チープなビニル傘を叩く雨音が、街の喧騒を曖昧にぼかす。雨夜の街にはやわらかな風合いの光があふれる。信号機やヘッドライト、ネオン看板、雑多に並ぶ商業施設の無機質な色の輪郭が、雨粒にほどけて反射されるためだ。道路までもがきらきらと光っている。ビニル傘ごしに躍るとりどりの色彩を眺めながら、彼女はふっと息をついた。親友とふたり天秤に飛び乗って、きっと少しだけ軽かった自分を恥じる夜はもう来ない。恨めしかったのは選ばれなかった事実でなく、想いを告げる勇気を持てなかった臆病さだと、気づいたのだ。雨のベールに包まれていきいきと潤い花めく百日紅を見やって、雪乃はひとり微笑みを零し、再び歩き出した。

ほんのわずかほど混じる寂しい後味と、前向きに想いを吹っ切ったすがすがしさを演出しました。彼女の恋が実ることはありませんでしたが、沈鬱な印象は伴わないはずです。こちらの文章においては「雨によって起きる光の反射が織り成す景色の鮮やかさ」「水を得て色を増す花の精彩」に注目しています。雨の日にだけ出会うことができる美しさを知ることで、これまでとは違ったものの見方ができるようになります。

まとめ

このトレーニングは「多角的な視点を養い、表現の幅を広げる」ことを目的としています。

真に迫った描写にせよ、レトリカルな描写にせよ、魅力的な表現をするためには日頃からものごとをよく観察することが大切です。多角的な視点を身に着ければ、一度の観察によってより多くの学びを得ることができるようになります。インプットの質が向上すれば、アウトプットされる作品もより洗練されることでしょう。

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感性を磨き、より良い文を書くために試行錯誤を重ねています。