こんなにおいしい本は、今までに食べたことがない!『性食考』をいただきます。

性食を、考える。

 食べる/交わる/殺す

 これらの言葉を目にしただけで、体の内がゾクゾクとしてきた方はいらっしゃいますか? 吐き気を催すような、嫌悪感を抱きますか? それとも、これこそが私の求めていたものだと、感動で心が震えますか?

 その(不)快感の原因を探るには、私たちがまだ、自然や動物たちと共に生きていた時代まで、遡る必要があるかもしれません。人間と動物とが、互いの皮を剥ぎ、被り、それだけによって互いに身を変じることができていた頃のことです。

 人類の歩みを原初まで辿ってみると、食べること、交わること、そして殺すことが、複雑に絡み合っている様子を見ることができます。

 私たちが毎日、何気なく行なっている「食べる」という行為。それは、交わることであり、殺すことであるのです。

 なんだそれ?と思った、そこのあなた。もうあなたは、この世界の秘密に触れてしまったようです。

 あなたがもし、限りない好奇心の持ち主であるならば、『性食考』の美味しさを、骨の髄まで味わうことができるでしょう。

 人間とは何か、いのちとは何か。その世界の秘密を味わわずにいるのは勿体無い……!

 『性食考』に触れるまでは想像も付かないような、 非常なユーモアに富んだ考察が、334頁にわたって大胆に繰り広げられます。

 その血なまぐさい、ステーキのような分厚い書物で、あなたの欲求を満たしてみようとは思いませんか。

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本との馴れ初め

 食は、時に性の代替品として使用されることがあるようです。セックスを摂食行為になぞらえる例は、日本語の中にもたくさん存在します。

 魅力的な娘は「いただく」ことができるし、目の前の女性を「据え膳」と呼ぶことがあります。「食べちゃいたいほど、可愛い。」という、愛の言葉を吐くことだって、もしかしたら、あるかもしれません。

 食と性とは繋がっているはずなのに、それを証明してくれるものがない。私は行き場のない好奇心にずっと苦しめられていました。

 食べるという行為は、性行為に似ている。捕食者と被食者とが同化するという点で、食べることと交わることは同じなのではないか。そんなことをずっと空想していたときに、この本と運命的な出会いを果たしました。

 食べるという行為にまとわりつく複雑な事象、感情。それは交わることであり、殺すことであり、私たちはそれによってさまざまな感情を引き起こします。それらに関連する先行研究や文献を引用しながら、『性食考』の著者である赤坂氏独自の発想法で、食べること、交わること、殺すことの本質に迫ります。

 その好奇心のきらめきを、体感してほしい。なので、少しだけ、この本のエッセンスのようなものを以下にまとめていきます。

 この世界の秘密を、ぜひ味わってみてください。

タブーとは何か

 まずは、タブーについての話をしなければなりません。「第4章 動物をめぐる問題系」の「糞と尿の間から生まれる」という節で、エドマンド・リーチの「言語の人類学的側面——動物のカテゴリと侮蔑後について」のタブー理論について触れています。

 私たちは言葉(物を識別すべき名前)によって区別された不連続の世界を見ていますが、幼児は言葉を知らぬがゆえに、それをひとつの連続体として認識していると、リーチは述べます。ゆえに幼児の描く人間には、頭や胴体の区別がなく、卵のように表現されるのではないか、と赤坂氏が興味深い仮説を提唱します。

 幼児は、「首」や「足」などの言葉を覚えた時にやっと、人間の体が区別された部分の集合体であることを、認識できるということです。

 私たちはこの世界が不連続の環境であることを知ります。そして「タブーは、「連続体のなかの物を分離している部分の認知」を禁止」するそうです。本文を抜粋してみます。

 タブーとは、言語によって構築されている見えない分類の体系のなかで、両義的な、例外的なカテゴリーとして発生する。タブーとされているものはすべて、聖性や価値・重要性・力・危険を抱いており、「不可触で汚らしくて口に出せないもの」だ、とリーチはいう。何を抑圧し、禁止しているのか。たとえば、身体からの分泌物、つまり糞便・尿・精液・月経血・切った髪や爪・垢・吐いたつば・母乳などは、たいてい厳しいタブーの対象となる。それらはいわば、わたしであって/わたしでないモノであるがゆえに、タブーの対象とならざるを得ない。唯一の例外は、涙であったか。涙にはケガレを浄化する力が宿ると信じられていることが多い。ともあれ、身体の内/外が交わり、隔てられる曖昧模糊とした場所に、身体にまつわるタブーが生成を遂げるのである。

 分かりやすい例が提示されています。私たちは糞や尿に対していわれもない嫌悪感を抱くことがありますが、その根源はここにあるのだと赤坂氏は述べます。わたしであって/わたしでないモノ。内と外が交わり隔てられるところにタブーがあるために、私たちは糞尿に対して吐き気を催すのです。

 後にジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』から「死と生殖」の話へと発展していきます。腐敗の話に繋がり、『古事記』の黄泉国訪問譚について考えます。

 腐敗というテーマも非常に興味深く、料理や九相図などに発展して語られますが、この先は実際に手に取って、ご自身で味わってみてください。

オネイティブ神話

 「第6章 女神の死」、「オホゲツヒメの死と作物の起源」の節で、ベネズエラ南部の神話が取り上げられています。

 ベネズエラ南部のサマネ族は、たいへんな速さで話し、食べる、地下に住む小人をオネイティブ/oneitib/と呼んでいる。彼らは内臓と肛門をもたないために絶え間なく飢えに悩まされており、生肉と、よくあることだが結婚を強いられるのを嫌がって月経が始まったことを隠す娘たちを食べるのである。したがって、食物の点で開かれた人物が、性的な点で開かれていながら偽って閉じているふりをする者に罰を与える。女を食べるオネイティブはしばしば男たちのもとを訪ね、激しい食欲をひきおこさせる。つまり性的な面で下部において過度に閉じていることを罰するかわりに、食べ物の面で上部において過度に開くのである。(「料理民族学小論」)

 この一節を読んだだけで、ワクワクが止まらなくなってしまいます。神話の中で、食べることと交わることが、複雑に絡み合っていることが分かります。これについての赤坂氏の言葉を引用してみましょう。先ほどのタブーの話と重ね合わせてみると、物事の本質が浮かび上がってくるはずです。

 (略)オネイティブの食べるのが生肉と生娘であったのは、なぜか。それはともに、食べられること/犯されることを拒んで、自然/文化のあわいの境界線に留まろうとする両義的な存在であった。食べられるモノとしては野生状態のケガレをまとうがゆえに、また、料理や結婚といった文化的なコントロールを拒んでいるがゆえに、危ういタブーの対象であった。月経が始まりながら/結婚をいやがる女たちを、オネイティブは食べる。そこでの食べることには、当然とはいえ、性的に交わることが重ねあわせにされていたはずだ。そうしてオネイティブによって食べられた娘たちは、危険な境界状態を脱して、ほかの男たちによって安全に食べる=交わることが可能な存在になったのではなかったか。

 タブーとは、両義的で例外的なカテゴリーとして発生すると、リーチは述べていました。自然と文化との間に留まる生肉や生娘は、両義的な存在であり、タブーの対象でありました。

 生肉はそのまま食すことができませんが、加工をすれば食べられるようになります。料理という過程を通して、肉を自然から文化の側へ引き寄せるのですね。いわば、オネイティブは火のような存在であって、生娘たちを調理して文化の側に引き寄せることで、男たちによって食べる=交わることを可能にしているのです。これは、初夜権というテーマに繋がっていきますが、またこれも、実際に本を手にして自らの舌で味わっていただきたいと思います。

暴力の現場から、芸能の庭へ

 最後に、日本語学的な面からのアプローチもご紹介いたします。「第8章 生け贄譚」、「桟敷には根源的な暴力が埋もれている」を覗いてみましょう。

 「桟敷」という言葉があります。この言葉を聞いて、皆さんはどんなものを想像しますか? やはり、歌舞伎座の客席でしょうか? ことばの語源を遡ると、そこにはまた食べること、交わること、殺すことの複雑に絡み合った様子が、見えてくるかもしれません。

 『古事記』のヤマタノヲロチ退治譚では、八つの門にサズキを結って酒を置くようスサノヲに指示されますが、このサズキが訛り、「桟敷」の字を当てたことが、西郷信綱の『古事記注釈』によって述べられています。神に向けて召し出されるものが、サズキ(桟敷)に乗せられていた、ということです。

 ここでは、天皇に召し出される予定であった女が、ある男と姦淫を犯したことで、天皇によってサズキの上に寝かされ、焼き殺された逸話が引用されます。それに対し赤坂氏はこう述べています。

 (略)それが刑罰の執行であったのか、政治的なスケープゴート儀礼であったのか、ほかのなにかであったのか、判断はむずかしい。ここでは、ほかならぬサズキがその舞台とされたことに注目しなければならない。そして、状況から推して、そこには見物の群衆が集まっていた可能性がある。処刑の庭から、芸能の庭へと、桟敷がよじれつつ展開してゆく道筋を思わずにはいられない。

 衝撃を受けました。生き物が殺されてゆく場面が、芸能の舞台へ繋がることがあるなんて。確かに、歴史の教科書で目にした処刑場面の数々には、野次馬がたかっていることが多く、これさえも昔の人には娯楽になりえたのだと思ったことはありましたが、ここまであからさまに関連があっただなんて。

 桟敷の語源を辿れば、明らかですよね。処罰は、それそのものとしてだけでなく、見世物としての目的を見出しつつあったということです。

 実際に、それは見世物としての目的を果たすことになります。

 桟敷において、贄棚において、生け贄に加えられた根源的な暴力の記憶はやがて、その場所への繋留をほどかれて、語り物や説経節や能や歌舞伎といった芸能のなかに受け継がれてゆくのかもしれない。

 非常にユーモアに富んだ、それでいてどこか信じずにはいられない、確信的な可能性を秘めた推察だとは思いませんか。

 芸能の舞台によって引き起こされる、本能的な恐怖はここからきているのかもしれない。それは狂気であったり、悲しみであったり、ひとことで言い表すことはできませんが、あのぽつんと隔絶された高さのある空間を見ていると、胸の奥でざわめくものを感じることがあります。

 生け贄が惨たらしく殺される祭壇から、劇場とその舞台へと、場面は大きく転換してゆく。俳優たちがカタルマに憑依し、生け贄の祭りをはなやかに演じてくれる。観客たちにカタルシスがもたらされる。桟敷はきっと、古代から中世へ、そして近代から現代へと、そのすべてを目撃していたのではなかったか。

 こうして、第8章は締めくくられます。この間にも、折口信夫の「櫓と花道と」、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』などの文献が引用され、舞台に対しての探求が、様々な角度から行われています。読んで後悔することは、ないでしょう。

冷めないうちに。

 上記のものは、全334頁からなる本書の、ほんのひとかけらに過ぎません。内容全体が互いに絡み合っているため、すべてを読み終えるまでは、物事の真理に近づくことはできないでしょう。

 「きっとこのテーマはどれだけ執念深く研究したところで、(略)けっしてあきらかな輪郭をもって浮き彫りにされることはないのだろう。」と、赤坂氏は述べます。

 本書は、食と性との繋がりを暴くものではありません。豊かな想像力と貪欲な好奇心でもって、食べること、交わること、殺すこと、そして「人間の本質」について探っていく、贅沢な御馳走のような、美味しい論書なのです。

 民俗学や宗教学、言語学に興味がある方、昔話や神話に魅力を感じる方、セックスがものすごく好き、もしくはものすごく嫌いな方、食べるという行為に不思議を感じる方、美味しい本が欲しくて欲しくてたまらない、そこのあなた。

 ここに、キーが隠されているかもしれません。

 美味しく召し上がってみてください。本と、交わってみてください。世界が変わって見えるはずです。

 冷めないうちに、早く!

 それでは、一足先に、ごちそうさまでした。

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