消えゆく記憶、募る疚しさ / 石沢麻衣『貝に続く場所にて』

本書を読んだきっかけは、寺田寅彦だった。

それは書店で山積みになっていた本書をふと手にとったときのことである。ページをめくると、参考文献として寺田寅彦の全集および関連書が3冊挙げられているのが目に入り、思わず興味をそそられた。というのも私は彼の随筆が好きなのだ。

別のページを開いてみると、「ゲッティンゲン」という単語が何度も出てくることに気がつく。ゲッティンゲンは、ドイツにあるアカデミックな都市である。ほんの一例ではあるが、ゲッティンゲン大学で教鞭を執った人物を挙げると、ガウス(数学)、ハイゼンベルク、プランク(物理学)、フッサール(哲学)など、誰でも知っているような学者の名がごろごろと出てくる。

そういえば、と思い出す。20世紀初頭、寺田寅彦もゲッティンゲンに留学したのだった。その滞在の記録を、彼の随筆集で昔読んだことがある。

そういうわけで、物語の舞台はドイツの学術都市ゲッティンゲン。しかし描かれるのは寺田寅彦の時代ではなく、新型コロナウイルス蔓延の渦中にある現代だ。さらに本書は、必ずしもドイツの物語とはいえない。主人公の「私」は日本人で、物語のキーとなるのは東日本大震災をめぐる記憶であるからだ。

これから、本書の魅力の一端を紹介していきたい。

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あらすじ:幽霊との再会

本書の語り手は、主人公の「私」である(会話相手のセリフから、おそらく「小峰里美」という名が与えられていることが窺えるが、作中で言及されるのは1箇所だけなので、以後も「私」とする)。

「私」はゲッティンゲンに留学している日本人女性で、美術史を研究している。現在は博士課程。研究主題は「中世以降のドイツにおける十四救難聖人の図像の発展と信仰問題」である。

物語は「私」がゲッティンゲンの駅舎にて、ある男を待つ場面で幕が上がる。

人気(ひとけ)のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を(さら)って顔の像を何とか結びあわせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、断片を集めても輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、(うず)く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.3

背景描写も美しく、夏の白い陽射しに包まれる静謐な空間が、繊細な筆致で描かれる。待っているのは野宮という男で、「私」が日本にいた頃、大学の同じ研究室に所属していた後輩である。彼もまた美術史を研究していた。

遠近感の狂った通路に、野宮(のみや)が緑を背にして立っていた。こちらに気づいたのか、旅行トランクの単調な車輪の音が近づいてくる。距離が失われてゆくとともに、すでに遠ざかっていた時間と止まったままの記憶が、車輪の音の(きし)みを真似て動き出すのが分かった。背が高く()せた姿は、重たげな暑さを上手く受け流している。広い額やその下の大きな目の釣り合いは、中世の彫刻のそれをなぞったかのようだ。陽光に揺れる緑を背景にしているためなのか、教会の高い窓を覆うステンドグラスに描かれた聖人像をふと連想した。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.5

ところが、野宮は幽霊であることが、唐突に、早々に明らかになる。彼は、9年前の東日本大震災で海にのみこまれたまま行方不明となったのだった。しかし「私」は、野宮の姿を目の当たりにしても、大して驚いているようには見えない。たしかに野宮と会うことに、躊躇いはある。だが、それは「私」が野宮に対して罪悪感を抱えているからであって、死者が蘇ること自体に怯えているわけではない。

なぜ、と読者は思う。なぜ死んだ人間が蘇るのか、どうして「私」はそれを受け入れているのか。しかし、そのような疑問に対して本書は何も答えてくれない。死者との再会を、ごく自然に、当たり前の出来事として淡々と描く。いわゆるマジック・リアリズムと呼ばれる手法である。

ところが再会を果たしたものの、「私」も野宮も核心的な話題には立ち入らず、当たり障りのない会話に終始する。結局しばらく街を歩いた後、2人は別れ、そのまましばらく野宮は登場しない。「私」も積極的に野宮と連絡を取ろうとはしない。

どうして「私」は早く行動を起こさないのか、じりじりする読者もいるかもしれない。だが本書はそのようなストーリー性のある小説ではないのである。物語は最後までほとんど進行せず、そのあいだ震災にまつわる記憶が少しずつ回想されてゆく。

ところで本書は、あまり読みやすい作品とは言えない。文学にある程度慣れている読者でなければ、読みづらく感じる箇所もあるだろう。私自身、150ページ程度の薄い小説なのですぐに読み終えられると思っていたが、案に相違してかなり時間がかかってしまった。

おそらくその原因は、扱う主題にではなく、おそらく作家の文体にあるのだろう。比喩をふんだんに用いた文体は、たしかに卓抜な箇所も多々見受けられるが、少々難解である。しかし読み進めると、作中のいたるところに散見される比喩は、本書の主題と密接に関連していることが理解できるはずだ。

先ほど引用した文章でも、歯痛の喩えや、野宮が聖人に重ねられていたくだりなど、やや奇妙に思われる箇所があったかもしれない。しかしこれらは修飾のための修飾ではなく、その意味するところは、読み進めるにつれて次第に分かってくる。

消えゆく記憶、募る疚しさ

次に、本書の主題である東日本大震災をめぐる記憶の問題について触れたい。尚、これからしばらく本文の引用が多くなることをあらかじめ断っておく。本書の問題意識にかかわることなので、できる限り作家自身の言葉で語ってもらいたいと考えた結果である。

まず注目したいのが「私」の設定と、野宮との関係性である。「私」は9年前の東日本大震災の被災者ではあるが、津波を経験していない人物として設定されている。内陸部に住んでいたおかげで、幸いにして津波は免れたのだ。震災の揺れによる被害は受けたものの、家族も全員無事であった。

あの日、私は狂った海から遠い場所にいた。海の黒と灰色の暴力にさらされず、野宮たちを引きずり回して失わせたものからかけ離れた場所。私はそのことに対して安堵し、身近にあった壊れた生活の軌道を元に戻すことに忙しくしていた。三月から時間が離れてゆき、私は元の生活をなぞり始める。しかし、戻らない場所の存在は、時間と共に輪郭を際立たせ、人や土地に刻まれた痕は、断ち切られた記憶を抱えていた。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.149

それに対して、沿岸部に住んでいた野宮の住居は跡形もなく消し去られ、家族全員が海にのまれてしまった。したがって「私」と、野宮および津波の被害にあった人々とのあいだには、直接的な経験の有無という深い断絶が存在し、「私」は距離を感じずにはいられない。

海も原発も関わらなかった場所にいたこと。そのことが、あの日の記憶と自分の繋がりを、どこかで見失わせている。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.60

自分の目ではなく、ニュースの映像でしか津波を見たことがない「私」は、震災後、海を目の前にしても何の感慨を覚えることもない。

しかし、私が目にした海は、いかなる映像とも異なる静けさを湛えていた。いまだに消えない痕跡を刻んだ街や土地に対し、それは変わらずに動いている。その表情に私は混乱する。その表情を映した私自身、何かしらの恐ろしさも哀しみも湧き上がることはなかった。海を前にして、私が得たのはあまりにも遠い距離感だけだった。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.149

「私」は、自己の間接性を意識するがゆえに、野宮の幽霊と向き合うことを躊躇う。

間接的な視点しか持たない言葉を、私は野宮に向けることを恐れている。ゲッティンゲンでも、彼はあの断絶の日について語ることはない。そして私も尋ねることはしない。言語化しない理由は、私が生きていて、彼がすでに死んでいるからではない。私が海に対しても原発に対しても、間接的な視点しか距離感しか持っていないからなのだ。私の視点は、常に額縁の外に置かれている。額縁の外から、画面の中にある削られた場所と常態を取り戻す海を眺めているにすぎないのだ。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.88

そして、直接的な繋がりのないあの日の記憶は、時とともに薄れてゆくのだった。そもそも「私」と野宮は、さほど親しい間柄ではなかった。同じ研究室に所属していた知人といった程度の関係である。それゆえ、なおのこと記憶を維持するのは難しい。だからこそ「私」はそれを恐れる。

私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。その時に、忘却が始まってしまうことになる。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 pp.149-50

記憶が遠のいてゆくことに「私」は疚しさを感じる。被災地から遠く離れたゲッティンゲンにいても、記憶をめぐる問題から逃れることはできない。

しかし、あの時間の向こうに消えた人々の記憶を、どのように抱えてゆけばよいのだろうか。名前が擦り切れるまで、記憶の中でなぞるしかないのか。野宮のように還れない人たちをたくさん抱えた海は、その名前を背負うことはしない。それを負うのは、いつも人の記憶である。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 pp.91-2

場所には歴史がある。いくつもの時間を積み重ねた場所は、死者の記憶を守ってくれることがある。

場所と名前は結びつく。故人の肖像が残っていなくても、場所が肖像画となってくれる。ゲッティンゲンもまた、名前という顔を記憶する場所だった。建物に肖像性を与えて、記憶を掘り起こし名前を守ってきた。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.114

しかし、野宮と場所の記憶との繋がりは失われてしまった。津波が、場所の顔を跡形もなく消し去ってしまったからである。このままでは野宮は救われず、どこにも還ることができない。

あの日から9年が経過してもなお「私」が抱え続ける問題意識とは以上のようなものである。本書の独創性は、災害を被災した人間の視点から直接的に描くのではなく、それを間接的にしか知らない人間の視点から描くことによって、記憶に対する距離感や罪悪感といった心理的現象を際立たせた点にあるだろう。

背中から歯が生える:マジック・リアリズムの技法

本書を別の側面から検討してみよう。先にも述べたとおり、本書にはマジック・リアリズムの技法が用いられている。しかし、実は野宮の幽霊以外にも、合理的な説明が与えられることのない超自然的現象は作中のいたるところで見受けられる。

中盤あたりで、街にはちょっとした変化が起こる。ゲッティンゲンには「惑星の小径」と呼ばれる太陽系の縮尺模型が設置されている。太陽模型を始点として、太陽系を構成する各惑星の模型が通りに沿って一直線に並び、街を横断している。終点となるのは海王星である。かつて9番目の惑星であった冥王星は2006年に準惑星に格下げされ、その結果を受けて模型も撤去されたのだった。ところが、その冥王星の模型が元にあった場所に姿を表すようになったのだ。しかもその模型は、断続的に現れたり消えたりするのだという。

他にも、たとえば冒頭で触れた寺田寅彦だが、おそらく彼本人と思われる「寺田氏」という人物が登場する。彼は「私」や野宮と会って普通に話をするのだが、それと同時に、現代とは異なる時間、つまり寺田寅彦がゲッティンゲンに滞在していた1910年頃を生きているようであり、どうやらこちらが彼の本来の時間らしい。

たとえば彼は、先述した太陽系の縮尺模型が設置されている場所のすぐ近くに住んでいるにもかかわらず、その模型には気がつかない。なぜなら縮尺模型が設置されたのは、寺田寅彦の時代よりずっとあとの時代だからである。明記されているわけではないが、彼もまた幽霊のようなものなのだろうか。ちなみに、野宮(と「私」)は寺田寅彦の愛読者であり、それは彼がゲッティンゲンを訪ねた理由のひとつにもなっている。

他にも超自然的な現象はたくさん起こるが、とりわけ強烈なのが、物語の後半、「私」の背中から歯が生えてくるくだりである。

ある朝、目が覚めると、背中に歯が生えていることに気づいた。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.105

あまりにも唐突なので、いくらなんでもこれは「私」の夢だろうと思ったが、そうではなかった。「私」は一応は驚いているようだが、病院に行こうという気にはならないらしい。アパートに同居しているアガータという友人も、驚くそぶりを見せず、淡々と処置を施してくれる。

歯は、あの日の記憶が抜け落ちてゆくことによって「私」の中に生じた痛みが物質化したものだとされる。そういえば本書の冒頭でも、記憶にまつわる痛みは歯痛に喩えられていたのだった。

この歯は「私」のアトリビュートでもある。アトリビュートとは、キリスト教の聖人を図像化する際に、個人特定ができるようにセットで描かれる、彼らを巡る逸話と深く結びついている持物である。それは「外部化された痛みの象徴」であるとされる。これは「私」の研究主題でもあった。

野宮や寺田氏を除けば、本書の登場人物はほとんど女性なのだが、実は彼女たちは皆、歴史上の聖女に重ねられており、各々の記憶とそれにまつわるアトリビュートを持つ。本書のタイトルに含まれている「貝」も、実は誰かのアトリビュートであることが物語の後半に判明する。

ちなみにこの流れで触れておくと、本書には西洋美術史に関するさまざまな話題が散りばめられている。一例を挙げると、アルブレヒト・アルトドルファーの『アレクサンダー大王の戦い』や、ハンス・メムリンクの『聖ウルスラの聖遺物箱』などである。美術に興味のない方は読み飛ばしたくなるかもしれないが、本書の主題ないし物語の結末と大きく関わってくるので、丁寧に読むことをお勧めしたい。

ところで、すでにお気付きの方もいらっしゃると思うが、先に引用した箇所はカフカの『変身』の有名な冒頭を思い起こさせる。ついでに触れておくと、他にも有名な文学作品のパロディーと思われる箇所がいくつかあって、読んでいる途中で見つけると面白い。たとえば次の箇所は、プルーストの『失われた時を求めて』のパロディーであろう。

午前中、二人で食事会用に貝殻のマドレーヌを焼いた。(中略)味見と称して、紅茶と共にひとつ口にしてみたが、私の記憶は揺さぶられず、何にも繋がらず、ぼんやり眠ったままだった。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 pp.88-9

話を戻すと、そもそもマジック・リアリズムは、ゲッティンゲンという街自体に適用されている。やがて街の中には、さまざまな過去の情景の断片が立ち現れるようになってくるからだ。多くの記憶を宿すゲッティンゲンは、回想する都市であり、超自然的な現象を起こさせる装置なのである。

多重露光の写真のように、街は自分自身に記憶を投影している。それはただ、逃げ水のように薄められた記憶の断片とも映る。ゲッティンゲンは、幾重にも重ねられた時間に目を向け、深い回想に沈み込んでいる。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 pp.83-4

最終盤には、主要な登場人物の全員が揃って「惑星の小径」を辿り、冥王星の模型が近くに設置されているビスマルク塔へ赴く場面がある。その際に一行が、時間ないし記憶の巡礼者として、歩を進めるたびに過去の時間を行きつ戻りつする様子は幻想的で美しく、本書の中でもとりわけ秀逸なシーンである。

本書は、ドイツの実在する都市ゲッティンゲンをリアリズム的に描いているわけではない。そこは、さまざまな超自然的な現象が継起する、摩訶不思議なトポスなのである。ある程度まで読み進めなければ、その前提が飲み込めずに混乱してしまう読者も少なくないかもしれないが、しかしそれが本書の大きな魅力となっていることは疑いようがない。

結論

長くなったので、そろそろまとめよう。本書は、災害を直接目にすることがなかった者たちが抱える記憶の問題を主題としていたのだった。そのことは同時に、被災から立ち直るのはいかに困難なことであるか、たとえ物質的には再建されたとしても、個々人の内面にはいかに深く破壊の爪痕を残し続けるかを教えてくれる。

海にのみ込まれた場所と、津波が届くことのなかった場所、この二つは時間が経っても完全に戻ることはない。仮に建物や街が元通りに再建されたとしても、その下には二つに分け隔てられた顔が残り続けるのだ。(中略)半分に分けられて、二つの顔と意識することで、ひとつの土地という記憶は置き去りにされてゆくような気もする。沿岸部の破壊に、避けた土地の印象。それは二重に壊されている。破壊された顔は、三月が訪れる度に、再生や復興という言葉で化粧が施されようとする。その度に、失われた顔は幽霊のように浮かび上がる。そして、それを無理に場所にはめようとする時、それは単なる願望の仮面を押しつけているのに過ぎなくなるのだろう。

石沢麻衣 (2021) 『貝に続く場所にて』講談社 p.117

災害後の影響を、現場から遠く隔たっていた者が想像するのは難しい。しかしそれを可能にするのが文学の力であると、本書はまざまざと感じさせてくれる。とりわけ「復興」という言葉が喧しく唱えられ、これほどまでに空疎に響くこの時代において、この作品が読まれる意義は大きい。

『貝に続く場所にて』は、災害を直接的には体験していない者たちの感じる記憶との距離感、それに伴う罪悪感といったテーマを掬い上げ、さらにはマジック・リアリズムの技法を巧みに駆使し、見事に結晶化させた作品であるといえよう。

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